自転車泥棒

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 過日、家族食卓時の折、話しになった。

 「お父さんは、絶対、二度と観たくない映画がある・・。」「何・・。」「イタリアの映画 自転車泥棒だ。」

 観た方は、ご存じだと思うが、娘に、あの時代と、大まかなストーリーを説明した。 「お父さんだったら、辛すぎる・・・。だから、観ない。」のだと言った。

 私は、最後のシーン[息子が、それでも、お父さんの手を握る]シーンが、大っ嫌いだ! イタリア人は、よく、こういう映画をつくるものだ。

 「私は、火垂るの墓。」「どうして・・・。」「皆、死んでしまうから・・。」と娘の返答。「友達もイヤだって言っているよ。」とのこと。

 八月が来るからと言って、こういう話題になった訳ではない。 生活すること、家族、許すということ、信じるということの大切さ、そして平和の尊さなどを、話のなかでいつもしている。

 時々、「それは、もう聞いた・・。」との娘の言葉に、「ウザいお父さん・・」と思われているようだが、それでもかまわず、時々は、話し合ってゆきたいし、してきたつもりだ。

 我が家の奥さんは、流行の心の病になっているので、いつも、話に入らずにいる。学校の担任にすると、めずらしい親子のようだが、友人でも、思春期の娘とよく話す彼がいる。その友人N親子の言動は、傍で見ていても、おもしろい。

 先日、樂士亭をお手伝いしてくれてるSさんから「私は、お父さんに、そんな口きいたことないわよ・・・。」と、娘が言われていた。 我娘は、どう思ったか知らないが、おそらく父であり、友人であり、話相手、相談相手が今の自分の役目なのかなっと、何も言わず、聞いていないふりをしていた。

 別に肩張る必要はない。 親として普段着の話をしてればいいと思っている。そのことが、《伝える》ことだと思っているのだが。

 実は、「自転車泥棒」3~4回は観ている。

マへリア・ジャクソン

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 昨日、友人と自分の音楽のルーツは、何だったのだろうと話しあった。

 正直に、自分と向かえ会えば解る。 今、存在しているかは分からない文京公会堂で「マへリア・ジャクソン」のコンサートに行ったことから、始まったのだと。 そして、自分の音楽に対する根源は、そこにある。

 知らない方のために、簡単な説明をしておく。 マへリアは、ゴスペル歌手である。「 真夏の夜のジャズ」の最後に出演した方だ。折りしも、彼女が歌っている時、雨が降り出したが観客3000人居たといわれている群衆の、誰一人として、席を立つ者がいなかったという伝説を作った女性。

 ただ、自分もこの実話は、あとで知った。 当時のバンマスが、「券があるから、お前行って勉強してこい・・。」と、言われた。 バンマスは、神さまだから、素直に、抵抗ずに行った。 何の前知識も無かった。

 ところが、ステージは、今の様な音響設備など一切なく、ハモンドオルガンとベースしか無かったような記憶しかないが、歌が始まったとたん、自分の感情が高まり、ブロークンな英語など、まして理解できなかったのに、何故か、涙が止まらなかった。 

 涙を拭くものもない。 その後、人前で、涙したことは、一度もない。

 安い席だったので、2Fの奥の席だった。 まだ、自分は硬派(今はない言葉?)という自覚があったので、人前で涙は見せられないと、見せれば軟弱だという思いがあった。 感動したふりして、2階の一番前まで行って、手摺に寄り掛かり、ただひたすら腕で涙を拭った。

 この要因は、色々あったのかも知れないが、一つ言えるのは、「都会の孤独」を、自分が味わっていたのも一因と、今では、言える。

 是非、一度素直に聞いてもらいたい歌手である。

 それ以後、特にコンサートに行くときは、ハンカチを持つようにした・・・・・何故かな?

 翌日、彼女は、皇室でコンサートを開いたそうだ。 ホントは、もっと違う人に聞いてもらった方が良かったのではと思っている。

医者嫌い

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 つい最近、娘に言われ、皮膚科に行った。 「アンタは、医者嫌いだね!。」と言われ、診察を受けたのだ。 (銭が無いから、来なかっただけです・・)と、声に出さず言った。 何でも、基本を忘れると、本末転倒のさえたるものとなる。

健康保険の始まりは知らないが、掛かった者が医療費を払うのが、当り前で、最初であろうと考える。 貧乏人は、米を持って支払ったり、病気にならないようドクダミ茶・柿のヘタ茶など自然のものを利用したりし、予防し、治癒力を信じ、我慢した。

 医学の進歩を、感謝し、けして軽視するものではないが、元々は助け合いの精神から国民皆保険加入という制度ができたのではないか。 それだけでは、維持できないということで、国、地方自治体が保険料の負担を始めたのではないか。これからの経済状況を考えると、保険料が、高いとか安いとか言ってないで、国とか、自治体のせいにしないで、掛かった人が払うのが、基本のことと考えることが大切なことだと思う。 税金の無駄使いは、もう止めよう。

 が、それを維持・管理する側に、不正とか、不適切、曖昧な処理がないことが大前提である。 そして、今一度、助け合うという事を考えた場合、無駄な通院・余分な要求などを求めない姿勢が、特に大事なことだ。

 本当に医者を必要とする人が自分より他にいる。 言うまでもないが、社会的弱者、難病の方とか、生活困窮者を切り捨てる事など絶対してはならないと思う今日この頃だ。  ・・・・ぶっぶっ。

コンビニ 一考

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 自分は、山間地に住んでいる。 近所のお友達は、猪・クマ・カモシカ・きつね・りす時々オオタカ・猿クンなどである。こんな話題になる前に、コンビニを中心とした地域づくりを考えた。 24時間何時でも、開いていて歩いて行ける場所に在るということは、緊急時、子育て中の親・高齢者にとって非常にありがたい存在だ。 地域の防犯にも、住民交流の場所としても役立つ。

自然界にとって、夜の明かりは生態系を狂わすということも、理解はしている。 ある24時間スーパーは、照明を落とす工夫をしているし、今、止む無く深夜勤務をする者にとっては、ありがたい存在だ。 都会の方々・裕福な方々には、理解しづらいかも知れないが。

なにか、イベントの時のみ考えるような唐突な、これ見よがしな意見は止めてもらいたい。 CO2など、都会の深夜、どなたが見ているか知らないが、広告塔の明かりを消したほうが余程削減効果があると聞いている。

若者が集まり、騒音等で迷惑だというなら、何故、彼らが集う場所づくりをしないのだろうか。 煩わしいから、何処か他へ行けとか、蓋をしてしまえっというのでは、益々、若者は狭い空間に閉じ込められ、逼塞感、絶望に捕らわれてしまう。 措置を考えないで施行すれば、その先は、見えない。 無謀でない若者はいない。 それが、若さでもある。 一考を切望する。

で、何を言いたいかというと、広く議論しないで、机上だけで、一部の方々だけで、サミット向けだけに施行しないでもらいたいということ。 例えば、男女雇用機会均等法などのおかげで、国挙げて考えなければならない少子化問題・子育て支援の問題の足をひぱってしまっていると、見えるのだが。

日記

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 ほんの少し前、白髪の車イスのおばあさんが、ニッコと笑顔で来店された。 その後補助されているご家族の方が、続いた。 しまった! お客様なのだから、自分から先に笑顔で、お迎えしなければいけなかったと、すぐに反省した。後手、後手、今日も風呂の中で反省だ!!! コーヒーのご注文。 手作りのパンドケーキ持参そしてご自分のお客様をもてなしている。 フォークをお出ししたら、「今、作ってきました。どうぞ、おあがり下さい。」 我々もご相伴に与った。 こんな風な場所提供もいいのかな・・・。我が会計S君に怒られそうだが、こっちの方が、何だか分からないけど、「うれしさ」「心持良さ」をもらったのだから。

本日、隣の市は、30度だって。 今、夕立が降り始めた。 雷が鳴っていると思ったらすぐにだ。 早い。 地震もあった様子。

樂歴 其の五

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 その頃は、どの大学でもビッグバンドが盛んだった。 我が校のビックバンドは、プロのなかにいた自分には、水が合わなかったので、クラブ活動には、一切参加しなかったが、一度だけ、交響楽団が、共立女子大でコンサートをやるのだけど、アルトサックスの部分があるからと誘われ、演奏に行きましたよ・・もちろん角瓶(当時の学生には、買えなかった酒ですよ!)ぶる下げてね。 青学の学園祭にも、仲間がいたので行って演奏したけど、チューニングがね? だからね、舞台の上から、当然、客席だけ注意してました?。 何もなかったですが。 奥さん・・ホントですよ。

当時の先輩から「3カ月いたら、遠慮なく、バンドを変えないと上手くならないし、コンボとビックバンド両方を経験したほうがいいよ。」 と、言われましたので、転々とし、色々経験させてもらいました。 移るたびに本人の意思に反してギャラは上がり、当時のマンションに住めるぐらいいただきました。

浅草・赤坂・銀座・六本木・青山・川崎・蒲田・横浜・新宿・米軍基地将校クラブほかドサ廻り(学生紛争の煽りを受け、休校中だったことが多かったので遠くまで行きました。旅先から、毎週、学生課に電話し、休校を確認すると、延長したり、又、行ったりの生活でした。)

個々の、話は、又。 一体そのお金どこに消えたのでしょ? 社会保険庁と同じよねぇ!

樂歴 其の四

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流しの時代は、苦しかった。 4~5人で納豆一つを分けて食べた。 但し、カラシだけは、大盛りでと、売りに来ていたオジサンに頼んだ。 納豆というより、醤油とカラシで飯食ったようなものだ。 でも、楽しかった。 ただ、学生だった自分とすれば、深夜から朝四時まで松戸のナイトクラブで演奏し、朝、8時まで明大前まで行かなければならなかったのは、辛かった。 体育実技は、落とせないので出席すると、オリンピックの重量上げのコーチだかが我が大学にいて、時々、いきなり、朝っぱらから重量上げの授業があったのには参った、けど、そんな我輩より、持ち上がらないヤツもいて、軟弱だな・・と思える学生も幾人かいた。 情けない!

その頃は、もうアルトサックスを吹いていた。 学生で、まだ信用がなかったので、学友の知り合いのお金持ちの方に保証人になってもらい、錦糸町の丸井で買った。大学の初任給の5倍ぐらいの値段だったと思う。 しばらくしてから、そこを辞めて浅草のキャバレーのジャズバンドに移った。 バンマスは、ピアノ弾きだった。

吹奏学部だったので譜面が読めたのが幸いし、給料は、初任給の5倍あった。 自分の腕からするもうこれ以上は、要らないと断ろうを、その時は、本気で思った。 でも、先輩の話を聞くと、少し前までは、借金など1ヶ月働けば払えた額だったそうだ、けど前借(バンス)してトンヅラするバンドマンが多くなったので、いろいろと変わったのだそうだ。 ヒデー。 続く!!!

樂歴寄り道 和小学校 記念演奏会

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自分が高校3年生の時、その日暑かった。 何故か、我高吹奏楽部が記念式典に招かれ、木造建て2階校舎で、私が指揮し、何曲か演奏した記憶がある。 その頃は、坂の多い(楽器運搬が大変だったので憶えているが。)この東御市に住むようになるなんて想像もしなかった。 解っていれば、少しは、人生やりようがあったかな? 当時の写真お持ちの方いませんか・・・・・。

樂歴   番外版の弐

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 上田交響楽団の話。  兎束先生宅で、練習していました。  紅茶が出され、今、思えばなんか、その雰囲気が憧れのようなものでした、世界が違うというか、上品というか、大人の世界というか。 高校卒業したてには、とても、新鮮でした。指揮は、藤沢・長井両先生、メンバーは、楽器と同じような体格の細田先生・チェロに征矢先生と山岸くんのお兄さんもいた気がする(偉い人だから顔もよく見れなかったし?)・ビオラに藤城先生・ヴァイオリンに山岸さん(後の征矢先生の奥さん)と木内先生、牧島さんの妹・フォルンは、高校生の山岸君(今では、クンなどと呼べませんが、・・・・悲しいかな。)・トランペットは、牧島さんで、後は、なんでも屋の高松先輩と大久保先輩(当時の先輩は、飲みに行くと決して後輩には、払わせなかった!!)でした。 怒られるかしれないが、後は、良く覚えてない。 ただ、「未完成交響曲」を演奏したとき、木内先生の娘さんがソリストとして参加し、「メヌエット」を共演しました。 当時、合唱団は、モナミ合唱団・グローリア合唱団・上田混声合唱団が上田では、主に活躍してました。 必然的に、小生は、グローリア合唱団に所属し、雑用係でした。 でも、上田混声合唱団の名簿にも名前があると、後に言われましたが、まったく覚えがありません。ボケたのでしょ?

 脱線しますが、上田自由大学の支援者に、松前七五郎という人がいますが、僕が、幼児のころ七五郎じいさんの膝に抱かれていた時の話です。 なにかあって、松前家で「こっくりさん」を呼ぶ方を招いたとき、その方が、いくらお呼びしても「こっくりさん」が交霊しないので、その場にいた家人そして従業員10数名の干支を尋ねたましたが、誰も該当者がいない・・おかしい、そして、最後に黙って抱かれていた幼児に、気がつき「そういえば、ケンちゃんは、戌年!」。 こっくりさんが、交霊しないのは、この子のせいですっと言われたそうです・・ジャンジャン・・ ヒドイ! でも、その話を聞いてから、僕には、悪霊とか、動物霊は、絶対憑依しないと確信しました。 ケド、近頃、妙に両肩が、重いのね・・なぜだか? 歳のせいだよね? そう言って・・お願いします!!!

  

樂歴  番外版

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中高校時代は、ひたすら吹奏楽でした。 中学の時、上小中学校合同の練習が、今はない上田第一中学校講堂で行われた。全体指導は、藤沢紫郎先生でした。私は、山岸先輩と「アルトホルン」と、いう楽器を吹いていました。 簡単に言うと、旋律は、まったく無し、いつも、低音を受け持つバスの後、ぅパ、ぅパ、ぅパパという楽譜ばかりでした。200~300人で、練習していたところ、突然「皆、彼のように吹かなければ・・・。」と、1年坊主の私を指して、誉めてくれたです。 何が起きたのか訳が分からず、真赤になったのだけ覚えています。 それが、私の人生を決めた遠因だったのであります。良かったのか悪かったのか。中学校の音楽の先生は、中沢先生(美人でした!)と、後々まで付き合う依田功先生(奥さんと、先生のゴツサは、美女と野獣と生徒は、思っていましたがね。)です。 夏の暑い盛りに、N響の打楽器奏者、百瀬さんが先輩ということで、2~3人の生徒を教えに、来てくれたのを憶えています。 ホントのところ、すごいか、どうかも分からず、ただ唖然としてました。 その陰に、長井一成先生がいたと知ったのは、大分後のことです。 長井先生には、何回か「お前なんか、出入り禁止・・・。」と、本気で怒られました。そんな時は、いつも「そんなに怒って、小原さんいいのよ・・・。」と助けてくれたのが、長井先生の奥さんでした。 何年か前に、コンサートで、当時、口のなかチョコレートで、いっぱいにされていたお孫さんに会いました。今は、大きくなって、教職に就いてるとのこと、子供の頃の面影があって懐かしかったです。 奥さんは、昔のまま・・・・イイね。

中央小学校(清明小の前身)の時、東御市の白石みさ代先生がいたとすれば、僕は、教わっている。 小3の秋、当時は、小中一緒の学芸会であったと思うのだが、独唱する予定が、母親の都合で引っ越し、ダメになった。 友人松尾のお母さん(女性は、歳取ったら、こうなってもらいたいと思う大変、品のある方です。タボーには、もったいない・・・?) に、聞いた話ですが、担任の古市正信先生が「思いとどまるよう言ってくれますか・・。」と、相談に見えたとのこと。親の引っ越しが子供の運命を変えた(止むえないけど)。 ・・・・・・・・・・・続きます。