馬鹿げた戯言?

 コーヒーカップ 極右・極左・県議・市町村長・国会議員・テキヤの親分・元ヤクザ(映画の様な早朝の出所に付き合った。)・公明党員・共産党員・天理教・クリスチャン・神道・言語、身体障害を持つ人・上級国家公務員・県職員・大学教授・画家・書家・演劇人・声楽家・公立学校長・園長・県警警部・自衛隊一佐だか二佐・不登校児・フリーター・暴走族・医師・歯科医・タレント・大手企業社長等と、言葉に出せない職業だった方、自閉症のH君と、近所の花が好きな、言葉は少々キツイMさんが、小生の周りで、友人~その間~知人でいる。

 これらの人の内に、差別はない。 皆、同じ人間である。 自分も同等に付き合っている。

 「一体、何考えているんだ?。」と言われそうだが、実際に付き合っているのだから、仕方がない。

 大切なことは、お互いに謙虚な心を持ち、たち振る舞い、解りあえる言葉を基礎に、意見の違いがあっても、お互いを尊重し合い、接することではないだろうか?

 解らないヤツは、解らない。 教えても、教えようとしても、ダメだ。 案外、教えると思うと、何時のまにか「自分は、コイツより上等?な人間。」と、思ってしまう方が多いのは・・・・・・何故か?

 こんな考えは、虹のように美しく、はかなく弱く、無駄な夢と言われようとも!

 この世に、生ある限り! 小生の場合、もう少し居られそうと信じているが!

 閻魔さまは、笑ってるかな?   グぅ…はっ、はっはっあ・・・・・・・。

 風と共に舞う枯れ葉を見ながら・・・・・シュン。

樂歴 其の十

コーヒーカップ
今回は、色々と思いだしたことを書きます。

 赤坂美松では、「オンリー・ユウー」のプラターズのバック演奏をしたことが、ありました。 レズリーのスピーカーと、ハモンドオルガンが、珍しく、演奏しながら聞き入っていたことを、思い出しております。

 新宿の店名は、忘れましたが、マルタと一緒に演奏したときのバンマスは、後年、佼成ウインド・オーケストラのマネジャーを勤められた鈴木さんでした。 そのバンドのメンバーは、ほとんどの方が、音大関係者だったと思います。 私も、初見で、三度の違いは、解るのですが、パツラ他の人は、四度、五度と初見で演奏してしまうのには、驚きましたし、ついていくのに大変でした。

 前にスタジオミュージシャンという言葉を使ったので、どういう方々か、紹介します。 兎に角、とんでもない技術を持った方々なのです。 でも、給料は、安いのです。 タレントの方々と比べてねぇ。

 スタジオミュージシャンに、初めてあったのは、埼玉の新規開店の出演時です。 白髪の方でしたが、ハードラバーのマウスピースを使っていたのを、憶えてます。 何故かというと、プロは、音量も出さねばと、自分は、メタルのマウスピースを使っていたのですが、その方は、自分の音より遠くまで、響き、聞こえるのです。 こっちは、負けじと大きな音量を出していたにも、かかわらず、柔かく、響いていたのです。 「あぁー、こういう吹き方もあるのだ・・・。」と、惚れぼれと、聞いていました。

 時期は、忘れましたが、文化放送で、番組を作るというので、日大芸術学部のスタジオで録音がありました。 当時のバンマスが、「お前、勉強になるから行ってこい・・・。」と、言われ、行きましたですよ。 放送されるんですからねぇ。

 ところが、どっこい。 演奏が始まり、テナーの私が吹くと、赤ランプがつくのです。 何回やっても・・・。

 隣で、銀座で演奏しているというクラの方の譜面をみたら、何と階段が、上の段まで行きそうな譜面を、いとも簡単に演奏しているのです。 それも、初見ですよ!!!

 その時ぐらい、テナーを叩き折って、スタジオから出たい。「もう、ヤメタ。もう、吹かないぞ。 俺には、才能がない・・・」という思いをしたことがありません。

 残る道は、母への手前、大学を卒業するためにだけ、東京で、生きてゆくためだけに、演奏しよう・・・と決めました。ですから、音楽に対する変な希望とか、欲は、全くありません。

 今の自分も、自分にとってのサックスは、人とのコミュニケーションをとる道具でしかありません。 割り切っています、だから、演歌でも何でも、他人が、喜んでくれるなら、何でも、演奏しますし、結局のとこ、根性が無いのですよ・・・・トッホッホッ・・・・。

 先年、加藤登紀子さんも言ってました「今の若い人はいい、好きで、楽しんで演奏している・・・。だけど、私は、生きていくために歌っている・・・・。」こういう言葉は、年齢を重ねないと、又、本物でないと出てこない言葉ですよねぇ。

この言葉を聞いた時、「あぁー、こういう有名な方でも、そう思っているんだ・・。」と思いました。

今日のところは、ここまで、まだ何かあったような気がするのですがね・・・・・・あぁーボケたのかなぁー。

樂歴 其の九

コーヒーカップ
もうグチャグチャだけど!

 赤坂の美松という鳩バスが、停まるような巨大なキャバレーから、声が掛かりました。 一時世間を賑わしたホテルニュージャパンの横で、バンドマンは、日枝神社の下の裏口から入りました。

 マルタとは、その後、新宿、今思い出しましたが、新宿へ行く前が、蒲田だった。 新宿のスマイリー小原さんが、出演している高級クラブの前を入った大きなキャバレーで横に並び演奏しました。

 美松では、一番は、マルタの先輩、二番は、武蔵野音大、三番がマルタ、私が四番だったのかな・・・。 武蔵野の彼がクラ専門だったので、サックスが弱かったので、私が二番に上がったこともありました。その時、四番に採用されたのが、早稲田の学生でした。 前後しますが、五番バリサクも、先輩のバリサクを借り、音量では、先輩も振り返るほどだした覚えがあります。

 フロントが、学生で占めていました。 楽しかったです。 ミマツは、その後も縁がありステージに上がりました。 その時は、コンボでした。

 一旦、退団しましたが、何処へ行ったのか忘れました。

 チェンジは、ビギンの曲「アレ、何っていう曲だっけ・・?」

 オーナーの女性の方の好きな曲でした。 それは、憶えております。  ・・・・・・・新たなクックッ・・ク、恋も芽生えたりして?

  奥さん嘘ですよ!嘘!!!嘘に決まっている・・

                       ・・・・・・・ヤケに強調するよなァ?

樂歴 其の八

コーヒーカップ
浅草方面から、蒲田に行きました。

 蒲田は、今のように、明るくありませんでしたが、当時のバンマスは、大川幸一さん、私が帰省した後も交流が続きました。

 「あっちの店に、面白い連中が出ているんだって・・・。」 バンマスの話。 後日、その名を知るのですが、その方々が、かの有名なコント55の売り出し前の話でした。

ここのヤノピさんも、変わっていた。 演奏中に時々音が無くなる?ドラムさんが、「おい、オヤジ、チェンジ、チェンジ・ワルツ・・・」と言うまで、お休みしているんですよ。

 我々が困るのは、ご本人が寝たときのまま、その置いた指の状態で、そのキーで、ワルツを弾き始めることでした。 何故、困るかというと、曲によって、決まったキイー(何々調、例えばト調とか、二短調とか)が、決めごとになっているのですが・・・それを、一切無視。

 ってことは、チェンジは、ワルツと決まっていましたので、曲は分かっても、その調を、探さねばならないことでした。

見方によっては、すごい才能を持った酔っ払いなのでした。

 ある日、頭にきたから、「ワルツなら何でもいいですよね・・?」と、彼が引く前に、いきなり小生は、憶えているメロから吹きました。

芸者ワルツ

 ステージを降りたら、バンマスだったかな「小原チャン、芸者ワルツはないよな・・・・。」っと言われました。 でも、何故芸者ワルツになったのか自分でも不思議なのですが、そう言えば、それ以後、私は、この曲を、ヒョットすると演奏してないかもしれません。

 「あなたの、リードーで、島田もゆれるぅー・・・。」

 立派なワルツじゃ、ありませんかねぇー!!

 この大川幸一さんは、斉藤 憐?脚本で、早稲田小劇場吉田日出子が演じた「上海バンスキング」を地で生き抜いた一人でした。 その事は、帰省後に分かったことでした。

キングだから偉い人の物語と思っては、いけませんよ。

 (バンス・・・前借りのこと。だから上海の多重債務者・借金王ということになりますです・・・・そのため、後輩の私たちは、苦労したんですよ・・お涙ものですょ・・・・ハイ。)。

                              では、その話は、帰省後になります。

樂歴 其の七

コーヒーカップ
川崎の次に、どこへ行ったか分からなくなっている。 蒲田へ行ったのは、川崎後とだけ、憶えているから、それは、間違いない。

その附近で、演奏をやった思い出深い場所といえば、横須賀の海軍基地? (夜、行って、夜帰ってきたからよく分からないが)そこが、米軍の基地だったことだけは、確かなことだ。

うれしいことは、売店で、ヨウモク(こんな言葉今は、無いか?)が、確か、半値で買えたので、休憩時間に買いに行った。唯一、基地で演奏した成果!

その時のバンマスは、ターギーだった。 この人は、大変な方で、銭湯に行って風呂のなかで、小便するのが趣味というか、当たり前だと言って、メンバーのヒンシュクをかっていた。

寅さんだって、「お風呂のなかで、屁をすれば前と後ろに泣きわかれ・・・・」と、屁しかしないのに・・・・きたねぇ~。

毎回出演するのは、将校クラブだった。 暗いのなんのって、お客の顔なんか・・まるっきり分からない。 テーブルのロウソクの明かりの中で、食事をしているらしかった。 音がするので、推測していただけだが。

ある日、ステージ上で突然「次は、ロシアから愛をこめて、やるぞ・・。」思わず「やっていいの?」「いいさ。」

自分で、前奏を弾き出した・・・。 わたくしも、演奏しましたよ。何かあっても知らないからね!途中、何事もなく、その曲が終わった。

ですよ、居るか居ないのか分からない客席から、拍手の嵐。

「おい、おい・・・あんた等こんな曲が好きなのか?」

当然のごとく、バンマスは、笑顔で答えていた。

亀有という所でも、演奏したことがある。 ドイヒーなバンドでは、あったが。 自分は、テナーだから、アルトのハーモニー役である。第一アルトは、バンマスの次に偉いハズだが・・ある日のステージで音がしないと横向いたら、譜面台で、寝てる・・・寝てるんですよ、本番の演奏中に!

ある時は、横綱大鵬関が来客したのを見て、演奏中、ステージから降りて、チャッカリ、サインをもらいに行ってしまうのです。ステージでは、メロディーの無い演奏が続いておりました。 その後、人の話によると、肝臓ガンで亡くなったそうだ。 あれだけ、毎日、仕事みたいに飲んじゃねぇ・・。

このバンドは、初期の頃の話。 投稿していて思い出したが、このバンドで、茨城にビータに行った。

初日の演奏が始まります。 ステージの横に、歌手が出を待っております。 バンマスが、「いっとう、にぃとう・・・」カウント・・・・

小生「いっとう、にぃとうって・・楽譜には、四分の二としか書いてない。 四分の二って、行進曲じゃないの????。」

バンマス、あいかわらず、私が演奏しないので、「はい、いっとう、にぃとう・・・。」「はい、いっとう・・・・」と、虚しく繰り返すだけ・・。

ただ、わたくしの頭は譜面台に垂直に近ずくだけ・・・赤面し、冷汗をかいて。

横をそれとなく見ると、歌手は、幕の陰で、マイクを持ってオロオロしている・・・・・。  我慢の限界を感じたのか、トロンボーンのバンマスが、ソロで、吹き始めた。

曲名は、「大利根月夜」・・・・・クッソ。

しかしですよ、後年、美空ひばりの専属アルトの方に聞いた話では、ひばりの米国公演の時、日本人は彼だけで、後は、向こうのスタジオミュージシャンを集めて、演奏したけど、この「いっとう、にぃとう・・」は、理解してもらえなかった・・と、言ってました・・・・・・・ホントです、ホント。

樂歴 其の六

コーヒーカップ
さて、投稿するとするか!

順序が、前後してしまうかも知れませんが、ご容赦ください。

浅草のコンボ退団、その後、川崎の国道一号線傍のキャバレーへ行きました。 当時既に、バンド譜など書いていた和田典男氏のフルバンドでした。 びっくりしたことに、ファーストトランペットの先輩は、7時30分~11時30分頃までの間に、ウイスキー1瓶を空けてもケッロとして、ラリッテ演奏していたのに、出会ったことですが、演奏中、一度も、ミストーンを出しません。

 確か、そこでナベサダさんに次いで、今、有名なマルタに出会ったのです。 そこに、ヤノピさんのトラで入って来て、ド派手に弾いたものですから、休憩時間お互い学生でしたので、「お前、ヤノピ専攻なの?」と、大学は、違いますが私の方が、年長なので、そういう横柄な言葉使いで尋ねたところ「違います。サックスです。」「大学どこだい?」「芸大です。でも、バイトすると音が変わるから教授に分かっちゃんですよね・・・。」

 (えー、じゃ俺よりうまいんじゃない?・・・・内心)それでも、横柄に、「ホルンの山岸 博っての知ってる?」「同期です。」

 トラが、終わる頃、「小原さん、サックス教えましょうか・・。」「馬鹿野郎お前になんか教わるか!」

 (ただただ年長者としての意地でした・・誰が1年坊主に教われか・・・・・今、思えば、教わっておけば・・俺はマルタに教わったって言えたのにな・・・ックソ)

 で、総武線の中野に住んでいましたので、もうこれ以上遠くには行かないぞっと、思っていましたが、それが、行くハメになったのです。

蒲田に!!!……ハッ花の蒲田!

本日は、ここまで・・・・・チョン・チョン(拍子木のつもり)

見切り千両

コーヒーカップ
 3~4日前の、朝日新聞の天声人語にそんな言葉が、載っていた。恐らく、銭の勘定ばかりしている方々は、気にもしない欄であろう!

 歴史の大きな出来事は、一般庶民の目に付きづらい小さな記事から始まるということを、何かの本で読んだことがある。

 五感を磨き、大切にすることにより、第六感を働かせることを、忘れるから「後の祭り」に、なってしまう。 では、第六感を働かせるには、どうしたらいいか?

 言うまでもない。一番は、 自然と親しむことだ。土と親しむことだ。 都会では、なかなか難しいことだろう・・・。

 美しく、楽しい多くの芸術に出会い、自己の感性を常に磨くことも大切な、人間形成の根源的なことと考える。 何回も言っているが、それは、ブランド志向やステイタスではない。

 ちなみに、我等が、文化会館展示室では、桶田明夫・浦野資勞両氏指導のもと、研鑽された近在の方々の力作が展示、合同絵画展が開催中である。 是非、ご来場あれ!

 昨日の同紙によると、素直に対応した方は、「値万両」の言葉。 見事、 株価は、歴代3番目の急落となってしまった。

     で、結局は、そのツケを背負うのは、一般庶民なんですよね!

 やっぱ、自己完結できる地域づくりを目指さないといけないのだと、小生みたい山間僻地に住む小市民は、思うのであります。

 ついでに、今日は朝から良いことがあった。 近所の仲良しおばあさん(ゴメン・・。)から、しゅうめい菊を、抱える程もらった。

樂歴 番外

コーヒーカップ
 流しをやって、ラスコバンドに入って、浅草のキャバレーが初舞台だったまで話したと思うので、その続きデス。

この歳になると、前後が分からなくなる(いわゆるボケってやつよねぇ・・。)

 学生運動の真っただ中、もう自分は、プロでした。 今思えば、不思議なことですが、その頃の活動家は、ヘルメット・角棒を持ち、タオルで顔を隠し、電車に乗るのですが、礼儀正しく、整然と乗降していたのには、驚きました。

 チョット、寄り道します(寄道が好きなもんで)。 新宿騒乱っていう事件知っている人いるよね? 丁度、その日、私は、その日、その時間、黄色の総武線に乗っていました。 はい・・・電車は新宿をでました。 ところがですよ、50メートルも行かない陸橋の上で、電車がとまってしまいました。 外をみると、煙がもうもう、怒号が飛び交っています。

 「何、やってんだ?」確か確実な車内案内がなく、しばらくしてから電車は動き始めました。 翌日、それが新宿騒乱という一面の見出しです。 それで、朝日新聞のトップに、ヘルメットをかぶって旗を振っているヤツが写っていました。白黒写真でしたが。

 後年、上田に帰ってきましたら、「その写真、旗振っていたの俺だよ・・・」という奴にあいました。 何故か、妙に女性にもてるバンドマンでした。 「ふんとに、俺は、その時、おい達おかげで、電車が止まり、そのなかで、便所にも行けず・・・。」と、別に批難した訳ではないですが、文句を言いました。

 熱があったですよ・・その時代の学生には、でも、小生は、すでに何百人と入るようなキャバレーというか、クラブで、男が女をだまし、女が男をだます、そして尊敬するおカマちゃん達のなかで、すでに汚れた生活をしてましたので、「世の中、変わるわけないよ・・・。」と、実感してました。

 ある意味、純粋にそういう活動ができた連中そして彼らの時間が、羨ましかったと、今では、素直に言えます。

この事実が、自分の負い目になっています。 ・・・・・・・この歳になっても。

 ある日、封鎖された学校のヘルメットと角棒の教室で、「小原君は、どうおもいますか?」との何かの説明を、求められた時「僕は、ノンポリだから、解らない・・。」と、発言してしまいました。 教室は、爆笑! でも今、思えば良く命があったなと思ってますです・・・ハイ。

 その矛盾を抱えながらいたことを、誰にも言えず、歴史学の授業の時、ただ素直に、用紙の裏表全て使って想いを一気に書きレポートを提出したら、何と、唯一の優をもらいました。 それがキッカケで、商学部をいったん退学し、興味のあった文学部に転向しました。 ちなみに、商学部の肝心の経済学は、可でした(ってことは、追試ぎりぎりという成績でしたのです・・ハイ)ので、きっぱりと、その世界は、あきらめたのです!

 小生のことを、「あいつは、退学したのだ。」とか、「卒業してないよ・・。」とか中傷するやつ(それも、友人と信じていたヤツが、2~3度娘のいる前で言う。)がいるのです。 「皆言っているよ!」って。 誰が言っているんじゃ・・ お前だろうが・・・。

 友人より、そっちの言葉を信じるのか? もう、そいつのことは、心の中では、切りました。 こういう馬鹿が多すぎると思います。 「友人」と思っていた小生が馬鹿なのです。 誰が、私は、大卒ですなんていうヤツがいますか? まして、T大じゃないし?勉強した覚えもないし、あまり登校しなかったので、まぁそうかなと自分でも思っているのですから。そんな奴こそ、友人を信じられないヤツこそアホじゃありません?。 俺は、根性がなかったから卒業した。 当時の学生で根性あるやつは、中退して行きました。 人に言うことじゃないが、そんな負い目を、感じて生きているのに。

 数学・英語・物理・化学・国語等の成績だけで、人を判断するから、こんなおかしな世の中になっちゃているんじゃないですか。 どこかの国の約二名の大臣様は、学校の成績が、人を決めるようなこと言ってますが・・・・。 T大でなきゃ、皆、馬鹿か? あんたの首相G大卒だけど、それって、首相を馬鹿にしてるし、国の象徴をも見下していませんか? T大卒が、なんぼのもんじゃ・・・。 それこそ、ぶっ潰せ!アホ。 何で、みんな怒らないの?

 あぁ・・・小中高では、人のこころを作り、育てる芸術の授業を削ってるし、そのことは、「心を削ること・・」だと、何で分からないのかねぇ! それも、思春期の真っただ中で・・・心を削っている。

本日は、新月につき苦情が多くなりました。 以後、気をつけますデス。

スゥヰング

コーヒーカップ
 疲れた! 何だか分からないが。 十月三日は、東御の日、式典で我がバンドが演奏した。

 Js文化フォーラム G5(予定では、平均年齢が推測50歳だったので名付けたのですが。)が、東御市で初お目見えだった。 ピアノの小林君が、まったくの新メンバー(ワク・ワクしたり緊張したりの様子でした。)。

 亭主と、ギターの片桐君と共に演奏したのは、今の新幹線のレール上だった(エライ昔の話だよぉ。) 千曲川の風をもろに受けながら。 二度とできないよね! それ以来の共演でした。

 ドラムの藤井君は、その昔、我がバンドのボーヤでしたので(何故か、小生は、彼に対して今でも威張ってますが、音楽的な技術は、正直なところ私をすでに抜いておりますデス・・・ハイ。)

ベースの大竹は、「G5は、君だけ!僕はG3です・・・。」と、裏切り者!

 照明・音響の坂口君は、演奏終了後「まったく、歌なんか歌って!」・・・だってピアノとギターでメロ・伴奏やってるんだもん、俺やることないんだもん・・フーン!

一般の方は、知らないけどバンドで一番下手なのは、バンマスってきまってるの・・・・常識!

ぎぇー、俺もその範疇に入っている!

 スゥイングは、ちょっと最後詰まったかな? あの蓑虫の、一番曲がったところと、一番伸びたところがないと、遊べないのですよぉ・・・・・!

 小林君だけ再度紹介しておく。 彼だけが音大卒、卒業後、青年海外協力隊でエクアドル?に行きました。 着いたとたんデング熱に、運良く?かかりました。 幾日間か、只々熱が下がるのを待つだけだったそうです。 無論、口には何も入らなかった。 生死の境を彷徨って帰ってきた。 今の奥さんその時、看病してくれた人だと、小生は確信しているが。

 それ以来、元来クラシック畑だったのが、レゲエ・サンバ・ボサノバなど南米の音楽にハマってしまった。

 おジン二人を除いて、ほかのメンバーは、この地域の音楽を引っ張っていってくれると期待しているし、最高にウマい!

 再演を約束して、別れた。 来年は、サンテラスそしてNHKのおじんバンドコンテストで優勝するぞ!!!

 若い連中に負けるか!・・・・・・・・・・・・・でも、ああぁ・・おじん。

希望は、希望に成りえない?

コーヒーカップ
 希望というものは、今にも切れそうな、か細いものだ。 

  心が欠如した言い方と非難されるかも知れないが、あの「夜と霧」のような本に出会うと、過酷な収容所のなかで、生き残れた人は、ホントに僅かな希望というのか解らないが、毎日、ささやかなことに、心を動かし、わずかな希望にすがっていた人々のようだ。

 小学生といえども、地球は、一つということは知っている。 汚せば取り返しがつかないことも。 だが、現実の近隣の国でさえ、「何故」という言動を、繰り返しているし、グルジアでは、圧倒的強さの武力を持つロシアが、制圧し、アフガン・イラクでは、テロが収まらない。

 核はだめだが、新型クラスター爆弾・地雷そして戦車・ミサイル・機関銃はいい? 人一人や、二人は殺しても? 幾人までなら殺傷してもよいとされる範囲なのだか? 誰が、それを決められる? 

 武器を放棄せよ!と、呼びかけても、悲しいかな・・現実は、絵に描いたモチ。

 平和という言葉は、普通の人間にとっては虚構なのか? 

 こんなこと言えるお育ちではないが、やになる。

 上田でグルジアの合唱団をお呼びしたとき、アンコールで国旗を振って歌った。 その時、「これが、民族の自立、魂の叫びなのか!」と、 こんな投稿をしながら、その時、ステージ横で、訳わからず鳥肌が立った感動を思い出している。

 日本人の特質である協調・同調の危うさを、危惧しつつ、不確かな「希望」という言葉を信じ、自分の範疇では、それでも、それでも・・・・コスタリカを応援してゆきたい。

 レイ・チャールズとエルトン・ジョンの「悲しみのバラード」を聞きながら。